蠣崎波響 (かきざきはきょう)
蠣崎波響(1764~1826)は、松前藩主松前資広の5男で、蠣崎家の養子となった。
江戸で宋紫石に学び、のちに大原呑響に入門した。寛政3年に京の大家円山応挙に師事する。画風は長崎派から円山派へと大きく変化した。1807年松前藩は福島県梁川に転封し、蠣崎波響は家老として領地回復に努力する。画の制作活動も資金調達のために精力的に行った。
蠣崎波響(1764~1826)は、松前藩主松前資広の5男で、蠣崎家の養子となった。
江戸で宋紫石に学び、のちに大原呑響に入門した。寛政3年に京の大家円山応挙に師事する。画風は長崎派から円山派へと大きく変化した。1807年松前藩は福島県梁川に転封し、蠣崎波響は家老として領地回復に努力する。画の制作活動も資金調達のために精力的に行った。