岸駒 (がんく)
岸駒(1749または1756~1838)は、越中国または加賀国の人。絵は金沢で矢田四如軒、あるいは森蘭斉に学んだというが不明。宝暦13年、狩野花信と称して絵を描いたと伝えられている。安永8年、京に上り、沈南ピンに私淑し、円山応挙の画風を取り入れて、独自の画風を確立した。天明4年に有栖川宮家に抱えられ、雅楽助の称を許される。御所の襖絵制作を手がけ、越前守にまで任じられるなど、岸派は円山四条派とならび、京の一大勢力となった。特に虎の絵に人気があった。
岸駒(1749または1756~1838)は、越中国または加賀国の人。絵は金沢で矢田四如軒、あるいは森蘭斉に学んだというが不明。宝暦13年、狩野花信と称して絵を描いたと伝えられている。安永8年、京に上り、沈南ピンに私淑し、円山応挙の画風を取り入れて、独自の画風を確立した。天明4年に有栖川宮家に抱えられ、雅楽助の称を許される。御所の襖絵制作を手がけ、越前守にまで任じられるなど、岸派は円山四条派とならび、京の一大勢力となった。特に虎の絵に人気があった。