喜多川歌麿 (きたがわうたまろ)
喜多川歌麿(1753~1806)は、鳥山石燕に狩野派の画法を学ぶと伝えられるが、初期の画風は勝川派風である。天明から寛政初期にかけての狂歌流行の中、版元蔦谷重三郎から「画本虫撰」などの絵入狂歌本を出し、その写生の技量が注目される。
また、人物の上半身のみを描く大首絵の美人画において、女性の肌や衣装の質感、身体の量感表現を工夫するとともに女性の内面描写を試みた。文化元年に、禁じられていた題材「太閤記」を錦絵版行し、手鎖の刑を受けた。
喜多川歌麿(1753~1806)は、鳥山石燕に狩野派の画法を学ぶと伝えられるが、初期の画風は勝川派風である。天明から寛政初期にかけての狂歌流行の中、版元蔦谷重三郎から「画本虫撰」などの絵入狂歌本を出し、その写生の技量が注目される。
また、人物の上半身のみを描く大首絵の美人画において、女性の肌や衣装の質感、身体の量感表現を工夫するとともに女性の内面描写を試みた。文化元年に、禁じられていた題材「太閤記」を錦絵版行し、手鎖の刑を受けた。