日下部鳴鶴 (くさかべめいかく)
日下部鳴鶴(1838~1922)は、彦根藩士田中惣右衛門の二男として江戸の藩邸に生まれ、22歳で日下部家の養嗣子となった。初名は八十八、ほかに三郎、内記、のちに東作とした。字は子暘、号は、明治のはじめ東嶼あるいは翠雨と称し、鳴鶴に改め、野鶴、老鶴、鶴叟などの別号がある。
早くから書を学び、巻菱湖風の書を身につけた。のちに貫名菘翁に私淑し、その弟子を通して菘翁の書に対する考えを吸収した。維新後、新政府に出仕し太政官大書記官になったが、鳴鶴を高く評価した大久保の死去を機に官を辞し、書家として立つことにした。
巌谷一六と松田雪柯を交えた楊守敬との交流によって、清朝考証学と実物の資料に触れて大陸の書道史を体系的に吸収した。これによって金石や漢隷、鄭道昭の書などを根底にした、それまでにない趣の書風を確立したが、その基礎には帖学的な教養を見ることができる。また、中林梧竹や河井荃廬らと談書会を結成、書の鑑賞と研究に先鞭をつけた。