懐月堂安度 (かいげつどうあんど)
懐月堂安度(生没年不詳)は、活躍期は宝永から正徳年間。浅草諏訪町で懐月堂という絵屋を営み、吉原帰りの客に遊女の絵姿を売ったと伝えられる。版画作品が現存しないことから、肉筆画に専念したと推測される。菱川師宣や鳥居清信に私淑しながらも、豊満な体をくの字に反らせた遊女の堂々とした立ち姿を画面いっぱいに大きく描き、独自のスタイルを確立した。濃墨の豪快な衣紋線で縁どられた衣装に、粗悪な泥絵具で鮮やかな色彩と大柄な模様を施し安度の美人画は、安知、度範、度辰、度種、度知といった門人によってパターン化され、衣装の柄を変えた類型的な肉筆美人画が大量に工房制作された。1714年に絵島生島事件に連座して大島に流されたが、1722年恩赦で江戸に戻った。