岡田米山人 (おかだべいさんじん)
岡田米山人(1744~1820)は、生まれたのは大阪、神戸など諸説あり、没年にも異説がある。前半生は不明な点が多いが、播磨国神東群から大阪に出たと考えられている。米の商いを業といていたため、米山人と号した。その後、伊勢国津藩藤堂藩侯に仕え、大阪蔵屋敷の留守居の下役をつとめ、文化6年以前には藤堂藩を辞し、隠居した。絵は、中国の古画を研究して山水画に長じ、晩年には奇抜な画風をみせる。子の半江も文人画家として大阪を中心に活躍した。
岡田米山人(1744~1820)は、生まれたのは大阪、神戸など諸説あり、没年にも異説がある。前半生は不明な点が多いが、播磨国神東群から大阪に出たと考えられている。米の商いを業といていたため、米山人と号した。その後、伊勢国津藩藤堂藩侯に仕え、大阪蔵屋敷の留守居の下役をつとめ、文化6年以前には藤堂藩を辞し、隠居した。絵は、中国の古画を研究して山水画に長じ、晩年には奇抜な画風をみせる。子の半江も文人画家として大阪を中心に活躍した。