田能村竹田 (たのむらちくでん)
田能村竹田(1777~1835)は、豊後岡藩の藩医の子として生まれる。儒学者として仕えた。百姓一揆に接して藩政改革の建言書を藩に出すが、聞き入れられず1813年、37歳で隠居する。その後京都や大阪をたびたび訪れ、各地の文人と交流し、詩書画に没頭した。
50歳で長崎へ行き、そこで見た多くの中国絵画の表現に驚いて、絵をやめようと思ったとも考えたという。頼山陽との交流にまつわる「亦復一楽帖」は、繊細で抒情的な表現を見せるが、<松らん古寺図>や<桃下流水図>の緻密で構築的な描写は、長崎で見たという良質な中国絵画との強い関連性をうかがわせて興味深い。