高橋泥舟 (たかはしでいしゅう)
高橋泥舟(1835~1903)は、槍術の名家、山岡正業の二男として江戸に生まれ、長じて母方の高橋包承の養子となった。名は政晃、字は寛猛、通称は謙三郎、精一。実兄の山岡静山について槍術を学んだのち、講武所槍術師範役や遊撃隊隊長を務めた。鳥羽伏見の戦いに敗れた徳川慶喜の警護にあたり、維新後は東京で隠退して、書を専らとする生活に入った。義弟である山岡鉄舟・勝海舟とともに幕末三舟と称される。
高橋泥舟(1835~1903)は、槍術の名家、山岡正業の二男として江戸に生まれ、長じて母方の高橋包承の養子となった。名は政晃、字は寛猛、通称は謙三郎、精一。実兄の山岡静山について槍術を学んだのち、講武所槍術師範役や遊撃隊隊長を務めた。鳥羽伏見の戦いに敗れた徳川慶喜の警護にあたり、維新後は東京で隠退して、書を専らとする生活に入った。義弟である山岡鉄舟・勝海舟とともに幕末三舟と称される。