比田井天来 (ひだいてんらい)
比田井天来(1872~1939)は、長野県北佐久郡協和村に比田井家の三男として生まれた。幼名は常太郎、29歳のときに鴻と改めた。字は子漸、天来はその号。壮年に淳風・天籟、中年以後まれに大樸山人・画沙道人の号を用いた。
明治30年(1897)に上京し、日下部鳴鶴に入門した。小石川哲学館や二松学舎で漢籍などを学んだ。畏友、松田南溟とともに鳴鶴の羊毛筆による回腕法とは異なった新たな用筆法を研究し、独自の俯仰法を確立した。書法史に詳しく、自ら執筆した臨書と古碑法帖の原跡を掲載した『学書筌蹄』全20巻を刊行、平凡社『書道全集』(戦前版)の監修・執筆なども行っている。
書写書道教育にも尽力し、東京高等師範学校、東京美術学校などで教鞭を執った。内閣教員検定委員会臨時委員となり、検定に古典の臨書と鑑定を加えて試験方法の刷新を図った。昭和12年(1937)、かなの尾上柴舟とともに、書として初めての帝国芸術院委員に推挙された。門下からは上田桑鳩や金子鷗亭、手島右卿ら、それまでにない新しい書風で戦後の書壇を代表する人物を多く輩出している。