西川春洞 (にしかわしゅんどう)
西川春洞(1847~1915)は、唐津藩医元琳の子で、江戸の藩邸(日本橋)に生まれた。名は元讓、字は子謙、号は春洞、ほかに大夢道人、茹古山民などがある。
中澤雪城に書を、漢学を平田虚舟や海保漁村に学んだ。はじめ医を業としたが、幕末維新期には国事に奔走し、新政府の大蔵省に出仕して2年で辞職、文墨を専らとする生活に入った。
書ははじめ、欧陽詢や「曹全碑」を学んで幕末明治に流行した巻菱湖の風を得意とした。岸田吟香・秋山碧城ら渡清した日本人などを通じて、金石学に触れ、漢魏六朝をはじめとする古碑法帖を学ぶようになった。鄭道昭や北魏の造像銘、金農や鄧石如にいたるまで幅広く学習したが、徐三庚と楊見山あたりの書風に最も強い影響を受けたようである。さらにときには洒脱な絵に軽妙な賛をあわせることもあって、この時代の中国趣味を積極的に取り入れながら、江戸の文人気質を晩年まで失わなかった。