近藤雪竹 (こんどうせっちく)
近藤雪竹(1863~1928)は、江戸青山の水野侯の邸内に生まれた。父、富孝もまた俳諧や書に親しむ文人だった。名は富寿、字は考卿、号は雪竹、別に聴泉楼主人という。
紀州の藩儒、井上韋斎に漢学を学ぶ。逓信省に43年奉職し、従六位勲六等に叙せられた。
明治12年(1879)、日下部鳴鶴に入門し、傍ら巌谷一六にも益を受け、漢魏六朝を中心に金石から明清に至るまで、歴代の名家の書を学び究めた。なかでも「張遷碑」や「石門頌」など漢隷を淵源にした隷書の名手として、鳴鶴・一六・梧竹といった大家からも一目置かれる存在だった。その人気は高く、数多くの碑文も手掛けている。日下部鳴鶴の談書会や前田黙鳳らが結成した健筆会、日本書道会、日本書道作振会、戊辰書道会などに参加して指導的な役割を果たしている。