長尾雨山 (ながおうざん)
長尾雨山(1864~1942)は、香川県の生まれ。名は甲、字は子生、通称槙太郎。雨山はその号で、別に石隱、古矜子、尤悶道人がある。
父、柏四郎のもとで早くから漢学に親しみ、東京帝国大学文科大学古典講習科を卒業。学習院や東京美術学校、東京帝国大学文科大学などで教鞭を執る一方、美術雑誌『国華』の編集も手掛け、なかでも東京美術学校の設立に岡倉天心らとともに尽力した。明治36年(1903)上海へ移住、10年にわたり、商務印書館で各種の書籍の編集を担当した。
帰国後は京都に住み、詩書画を専らとし、平安書道会副会長のほか、泰東書道院、日本南画院、日本美術協会などに参加、詩会も主宰した。生涯を通じて鄭孝胥や呉昌碩、内藤湖南、犬養木堂(犬養毅)などのこの時代の日中を代表する文人と交わった。蘇軾をこよなく愛したことで知られ、寿蘇会、赤壁会を開催している。また、中国書画の鑑識では内藤湖南と双璧をなし、多くの序跋を遺している。書はいかなる書体も良くこなし、とりわけ草書に優れた。