雲谷等益 (うんこくとうえき)
雲谷等益(1591~1644)は、江戸時代前期に活躍した画家。
雲谷派の祖、等顔の次男として生まれる。絵は父に学び、慶長年間頃より本格的に描き始める。父の等顔は、安芸国広島城主・毛利輝元の御用絵師であったが、毛利氏の国替えにより萩に移り、等益もそれに従う。元和元年、兄の等屋が早世したため、同4年に父が没した際に家督を継ぎ、雲谷派の画風確立や組織作りを行った。寛永3年、法橋に叙される。毛利家の御用を務めて順調に出世、寛永中頃からは「雪舟4代」を称した。晩年、目が悪くなったと伝える資料があり、寛永16年には家督を長男等与に譲ったと思われるが、その後も画事は続け、同20年には、毛利家から将軍家へ献上する屏風の制作を命じられ、7月に屏風10双が江戸城へ納められている。