狩野尚信 (かのうなおのぶ)
狩野尚信(1602~1650)は、狩野孝信の二男として京都に生まれる。兄は狩野探幽、弟は狩野安信である。父に12歳の時に死別し、伯父狩野光信の高弟狩野興以に教育を受けた。兄探幽が江戸に移ったため父の家督を継ぐ。元和9年17歳の時、京都で将軍家光に喝し、席画を描いたことがあったという。寛永7年将軍家の命により江戸に下り、前将軍秀忠に喝し、御画御用を命じられ、木挽町狩野家の基礎が築かれたわけである。壮年で没したため現存する遺作は少ない。44歳の若さで没した。
「探幽ある時、主馬は天下の名人なりといえりとぞ。墨色をも巧みにしてもって名あり。八文の墨をもって紫の色を出すといわれたり。その墨色は吾人一見して実に言語に表しあたわざるの妙あり。・・・岡倉天心」