小田海僊 (おだかいせん)
小田海僊(1785~1862)は、長門赤間関の染工の子として生まれる。22歳の時、京に出て呉春に入門し、はじめは四条派風の絵を描いたが、頼山陽と交流を持ってからは南画へ傾倒した。文政元年には九州を歴訪し、長崎にはしばらく滞在。帰京後は、さまざまな学者、画家たちと交流し、文人生活を送った。文政7年には江戸に下り、萩藩主毛利斉元に召し出され、お抱え絵師となったが、京に住むことを許されている。京の人名録「平安人物志」には度々登場している。
小田海僊(1785~1862)は、長門赤間関の染工の子として生まれる。22歳の時、京に出て呉春に入門し、はじめは四条派風の絵を描いたが、頼山陽と交流を持ってからは南画へ傾倒した。文政元年には九州を歴訪し、長崎にはしばらく滞在。帰京後は、さまざまな学者、画家たちと交流し、文人生活を送った。文政7年には江戸に下り、萩藩主毛利斉元に召し出され、お抱え絵師となったが、京に住むことを許されている。京の人名録「平安人物志」には度々登場している。