上田耕冲 (うえだこうちゅう)
上田耕冲(1819~1911)は、円山応挙門下の画家、上田耕夫の子として、京で生まれたと考えられている。絵は父に、父没後は、大阪の四条派の画家、長山孔寅に学んだという。明治維新前後の大阪経済の混乱を受けて、明治初年頃には居候生活をしながら、当時流行していた文人画をまねて、こうもり傘に絵を描いていた、と伝えられる。明治17年に設立された私立浪華画学校で、日本画の教授として後進を指導した。
上田耕冲(1819~1911)は、円山応挙門下の画家、上田耕夫の子として、京で生まれたと考えられている。絵は父に、父没後は、大阪の四条派の画家、長山孔寅に学んだという。明治維新前後の大阪経済の混乱を受けて、明治初年頃には居候生活をしながら、当時流行していた文人画をまねて、こうもり傘に絵を描いていた、と伝えられる。明治17年に設立された私立浪華画学校で、日本画の教授として後進を指導した。