河東碧梧桐 (かわひがしへきごとう)
河東碧梧桐(1873~1937)は、松山市千舟町に河東静渓の五男として生まれた。名は秉五郎。19歳のころ、俳号が碧梧桐に落ち着き、別号には青桐、如月、桐仙、秉殻、梧桐仙、海紅堂など多くある。
高浜虚子とは伊予尋常中学で同級生となる。野球を教わったことをきっかけに、明治23年(1890)正岡子規の指導を受け、俳句を作り始めた。京都の第三高等学校・仙台の第二高等学校で虚子と学業を共にするが退学、子規をたよって上京した。子規没後、新聞「日本」の俳句欄の選者を引き継いで務めた。また、新傾向俳句運動を展開し、二度の全国俳句行脚を行った。昭和8年(1933)還暦祝いの席上で俳壇からの隠退を宣言した。
書は、中村不折の六朝風の書に強い共感を示し、自身もそれに倣って学びながらも、不折とはまた異なった書風を形成した。明治41年(1908)には不折の書帖『龍眠帖』の発行者となり、同45年(1912)に碧梧桐と不折を中心として、六朝書の研究グループ「龍眠会」を結成した。