長谷川等伯 (はせがわとうはく)
長谷川等伯(1539~1610)は、能登出身。初め信春と名乗って仏画などを描いていたが30歳を過ぎて上京、雪舟の後継者を自称して等伯と名前を改め、狩野永徳を警戒させるほどの活躍をする。
智積院に残る障壁画は、もとは1591年に亡くなった息子のために秀吉が建立した祥雲寺の障壁画である。長谷川派の総力を挙げての制作だったが、とりわけ華麗なのは、等伯が担当した<楓図>である。
水墨画にも独自の境地を開き、代表作<松林図屏風>には、見る者を瞬時に絵の中に誘い込む力がある。