菊田伊洲 (きくたいじゅう)
菊田伊洲(1791~1852)は、江戸の画家、武田竹亭の子として、仙台に生まれる。仙台藩のお抱え絵師である菊田家の菊田東羽に請われて養子となった。文化元年江戸に出て、木挽町狩野家の狩野栄信の門に入り、研鑚を積み、後にその一字を得て伊洲と号した。谷文晁や、その門下である喜多武清らとも交流があり、水墨画には谷文晁の影響がみられる。嘉永三年から五年にかけて、高野山西禅院、親王院、無量寿院などの障壁画制作に携わり、現在100面以上の障壁画が確認されている。
菊田伊洲(1791~1852)は、江戸の画家、武田竹亭の子として、仙台に生まれる。仙台藩のお抱え絵師である菊田家の菊田東羽に請われて養子となった。文化元年江戸に出て、木挽町狩野家の狩野栄信の門に入り、研鑚を積み、後にその一字を得て伊洲と号した。谷文晁や、その門下である喜多武清らとも交流があり、水墨画には谷文晁の影響がみられる。嘉永三年から五年にかけて、高野山西禅院、親王院、無量寿院などの障壁画制作に携わり、現在100面以上の障壁画が確認されている。