沖一峨 (おきいちが)
沖一峨(1796~1861)は、江戸深川の児玉家に生まれる。沖家に入る前は、町絵師として活動していた。鍛冶橋狩野家の門に入り、42歳の時、やはり鍛冶橋狩野家の探信守道の門下だった、沖探容の養子となる。探容は、鳥取藩池田家の御用絵師で代々江戸詰として仕えた、沖家の六代。
一峨は、天保11年に家督を継ぎ、七代となった。沖家歴代の中で、最も藩主に重用されたと言われている。画風は幅広く、酒井抱一の門人だった可能性や、谷文晁周辺からの影響も指摘されている。なお、没年を安政2年とする説がある。
八代を継いだ息子九皐も、江戸詰絵師として池田家に仕えたが、明治維新後は新政府に出仕し、岩倉具視の使節団に随行し、その途中からイギリスに留学。帰国後は、神奈川県令をはじめ、府県知事を歴任した。