殿村藍田 (とのむららんでん)
殿村藍田(1913〜2000)
「いくら曲がってても私の行書は芯が通ってる」
「いくらうねってもピンとなる」
藍田はみずからこう語っている。
芝の石屋に生まれた藍田は、建築を学んでいた。構造力学などは得意だったらしい。うねり暴れた行が書き終えてみるとぴたりと紙面に収まる。これは建築出身だからだという。日本芸術院賞を受賞した、「十二楼」という大きな書き出しではじまるあの作を思い浮かべれば合点がいく。
学校を卒業して徴兵されるまで、手持ちぶさたとなった九ヶ月の間に藍田は書にのめりこんだ。はじめ大角芳園の手本を習い、豊道春海に師事した藍田だが、断続的に三度にわたった兵隊生活もあって、実質的に独学した期間が長い。衛生兵だったことが幸いして、赴任先でも筆を執ることができた。
書を習いはじめてまもないころ、日本橋にあった守尾瑞芝堂で羊毛筆の邵芝巌と何紹基の法帖を手に入れた。これを皮切りに、米芾や蘇東坡といった宋人、さらには董其昌を経て八大山人や王鐸、鄭板橋といった唯美的な表現に一気に惹きつけられていく。この肌合いは、藍田の時に激情的で没頭型の性質にしっくりときたのであろう。富岡鉄斎や良寛にも興味を抱いたが、その観念的な面は採らず、あくまで都会的で知性の勝った表現を専らにする。
昭和四十二年の日展内閣総理大臣賞は仮名の小品で受賞した。行草の名人であることは、いまなお誰もが認めるところである。一方で、十二世紀末を彷彿とさせる仮名も藍田の手にすんなりと馴染んだ。これもまた現代の鬼才である鈴木翠軒の激賞もその手腕を物語っている。漢字と仮名、日中の垣根を藍田は軽々と越えていく。