宮島詠士 (みやじまえいし)
宮島詠士(1867~1943)は、米沢藩の藩校興譲館教授宮島誠一郎の長男として生まれた。名は大八、詠士は号。正式には諱が吉美、大八は通称ともいう。
幼時父母とともに上京し、11歳で勝海舟の門に入る。興亜会支那語学校に入学し、廃校に伴って東京外国語学校に転じて中国語を学んだ。清国公使館にも通い、中国史や語学を身に付けた。
明治21年(1888)、清国公使黎庶昌の勧めで渡清して張廉卿に師事し、その歿するまで7年間のほとんどを中国で過ごした。廉卿は詠士に「張猛龍碑」の拓を与え、直接指導はせずに、独力で書法を身に付けるよう促したという。さらに「高貞碑」、欧陽詢、顔真卿などを学んで、切れ味鋭い筆画と、懐を狭くとり、左右への長い払いの文字を特徴とする書風を構築した。帰国後は東京帝国大学や東京高等商業学校附属外国語学校などで教鞭をとる傍ら、自ら善隣書院を設立して日中交流を担う次世代の教育に力を注いだ。