柳沢淇園 (やなぎさわきえん)
柳沢淇園(1704~1758)は、柳沢吉保の家老を務めた曾祢保格の子として生まれる。享保3年の元服時に藩主吉里から柳沢の姓を与えられ、同12年には吉里の一字を拝領して字を里恭と改めたことで、中国風に柳里恭とも称した。多芸な人物で、絵は長崎派の英元章こと吉田秀雪に師事したと伝えられ、中国風の濃密でアクの強い作風が特徴。藩主として吉里・伊信の二代に仕え、特に伊信には重用されて重要な責務を果たした。公務の傍らで絵画制作を行うという、日本における文人画の草創期の画家としても重要視されている。