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書の美術 展
2019.10.31-2019.11.10
松本松栄堂 東京オフィスにて 「書の美術」展を開催させて頂きます。 今回は江戸時代に書かれた書の作品を展示致します。 江戸時代の書の美術を少しでも感じて頂ければ幸いです。
※画像をクリックしていただくと作品の詳細が表示されます。
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本阿弥光悦「書状」 本阿弥光悦(1558−1637)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての芸術家で、書は「寛永の三筆」の一人に数えられます。元和元年(1615)、徳川家康から洛北・鷹ヶ峰の地を与えられ、一族や種々の工芸職人と共に移住し、書画や美術工芸などの創作活動を統率、展開したことで知られます。 この書状は誰に宛てたのかは明らかではないですが、書風から光悦50歳代の壮年期のものと考えられます。おもてなしができた事に大変満足する光悦の様子が窺えます。
近衛信尹「渡唐天神図」 近衛信尹(1565−1614)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての公卿で、その書は近衛流または三藐院流と呼ばれて流行し、「寛永の三筆」の一人に数えられます。和歌や連歌にも長じ、また大徳寺の春屋宗園と古渓宗陳に参禅し、沢庵宗彭とも交流がありました。 この「渡唐天神図」は、学問の神様である菅原道真が時空を飛び越え中国に渡り、無準師範から法衣を授けられたという伝説に基づくものです。冠に道服の姿で描かれ、冠の部分を「天」の字、衣を「神」の草書体で表した文字絵となっています。賛歌「梅あらばいやしき賤が伏屋まで我立ち寄らん悪魔しりぞけ」は、天神の力を感得しうる呪歌として伝承しました。
白隠慧鶴「親置字」 白隠慧鶴(1685−1768)は、江戸時代中期の禅僧。駿河(静岡県)原宿の出身で、「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」と謳われました。臨済宗中興の祖と呼ばれ、説法や書画を通して民衆教化に努めたことで知られています。 この作では、「親」字を大書し、続けて白隠の仮名法語集『主心お婆々粉引歌』に収まる「孝行するほど子孫も繁昌 おやは浮世の福田じや」を淡墨でぼってりと書いた、白隠80歳代の書です。福田とは、田が作物を生み出すように、福徳を得させる人のことを意味します。
与謝蕪村「俳画」 与謝蕪村(1716−1783)は、江戸時代中期の俳人にして画家。池大雅とともに「文人画」を大成し、大雅との合作「十便十宜図」は国宝に指定されています。また、松尾芭蕉・小林一茶と並んで江戸時代の三大俳人と呼ばれます。 この俳画では、長良川の鵜飼を見物する面々を描き、画面上部に蕪村の晩年の句文集『新華摘』に載る「殿はらの 名古屋㒵なる 鵜河哉」を書いています。季語は「鵜河(川)」で夏の語で、「男たちの瓜実顔の温和ぶり、この鵜川でも変わらないなあ」という意です。
池大雅「一行書」 池大雅(1723−1776)は、江戸時代中期の文人画家にして書家。画は与謝蕪村ともに「日本南画の大成者」と称され、書は唐様を基礎に置きつつ、独創的な書法を確立しました。また、大雅29歳の時に白隠慧鶴に参禅したことでも知られます。 一行に揮毫した「一缾春水自煎茶」は『全宋詩』に収まる周氏の七言絶句「春水」の最後の句で、「一瓶の春水で自分で茶を煎じて飲むばかりである」という意です。
良寛「書状」 良寛(1758−1831)は、江戸時代後期の禅僧。托鉢をしながら多くの詩や歌を詠み、それを近在の人々に書き与えました。その書は「秋萩帖」、懐素「自叙帖」「千字文」、王羲之の法帖などの古典を学び、独自の境地を開きました。 この書状は、近い親戚関係にあった与板(新潟県長岡市)の山田杜皐に宛てたものです。『良寛墨蹟大観』第五巻・書状篇に収録され、「良寛が乙子神社社務所に入って間もなくのものと思われ、文化の末年ころであろう」と解説が付されています。
本阿弥光悦「書状」 松花堂昭乗「渡唐天神図」 松尾芭蕉「俳句」 白隠慧鶴「親置字」 寂厳「三行書」 与謝蕪村「俳画」 慈雲飲光「梵字一行書」 池大雅「一行書」 浦上玉堂「書」 良寛「書状」 貫名菘翁「三行書」 富岡鉄斎「書状」 という13点の作品で構成される小さな展覧会です。 江戸時代の書の美術を少しでも感じていただければ幸いです。
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