Goodness
善 展
2020.10.29-2020.11.08
Covid-19の影響により、内に籠り考える時間が増えた現代において、掛軸も一つのお役に立てるのではないかと考え、web エキシビション ページを作りました。
今回は、「善」をテーマに作品を選びました。
自分自身や社会を見つめ直す中で、先人が創り上げた作品が、何かを考えるきっかけになると信じています。
作品が創られた時代背景や、書かれた内容をゆっくりと考える事で、今を見つめ直す手がかりになれば幸いです。
今回の展覧会が、自分を見つめ直すお役に立てる事を願っています。
久松真一は、禅の造形には「不均斉」「簡素」「枯高」「自然」「幽玄」「脱俗」「静寂」という七つの性格が備わっているという。
均斉を破って不均斉に至り、くどくどしくなく、老松のような風格をまとい、わざとらしさのない無垢な表情で、奥床しさがあり、こだわりが抜け、落ち着きと静かさがある。書画にしても茶道具にしても建築にしても、こうした禅味に胸ぐらを掴まれることがある。
書や絵画をたくさん見ていると、技法的に巧みであることや、造形的な工夫に関心が集中していく。視点として理解しやすいからにほかならない。書道史や美術史が「造形」を中心軸に語られるものである以上、もちろんこうしたモノの見かたを手放すことはできない。一方で、人が作り出すモノには、技法や形の観察だけでは捕まえきれないものがあることも事実である。
子どもだった白隠は、熱く沸いた風呂に八熱地獄の光景を重ねあわせて大変な恐怖を感じて泣き出したという。この地獄への畏怖の念が宗教者としての白隠を誕生させたのである。「南無地獄大菩薩」の一行は、白隠の最晩年の書である。このことばを書いた幅がほかにも何点か確認できるが、いずれも同じころの作である。あれほど地獄を恐れた白隠が、地獄を求めてこのことばをしたためているのである。肉太に書かれた文字は紙面を一杯に埋め尽くしている。どこか喜びにも満ちた表現は、書法という枠組みを超え、白隠が描く禅画との境目もぼんやりとしている。ゆったりと筆を運ぶ白隠の筆の軌跡を淡い墨色が今日に伝えている。
バサッと筆を下ろしてぐいぐいと書き進む慈雲の論語の一節にも、草仮名をじっくり書く良寛の鉢の子を詠んだ歌にも、何者にも冒されないその人の存在が浮き彫りにされている。彼らの表現は、徹底して自らの内面に向き合い続けたことで生まれた他所にはない表現である。さらに加えるのであれば、とりわけ書跡にその人の存在を感じるのである。
ところで、先に述べた久松真一が『禅と美術』(墨美社)を執筆したのは1958年、白隠や慈雲、良寛、三輪田米山といった禅味を帯びた書を積極的に紹介した書道研究誌『墨美』の刊行が始まったのが1951年、藪本英太郎の『慈雲尊者遺芳』はそれより少し前の1938年、安田靫彦の『良寛』(筑摩書房)が1960年、竹内尚次と鈴木大拙の『白隠』(筑摩書房)は1964年にそれぞれ刊行されている。墨美社を率いたのは書家の森田子龍である。
この時代の日本は、神武景気、岩戸景気を経て高度経済成長のまっただ中にあった。戦後復興の総括は1964年の東京オリンピックである。民主主義時代の自由を謳歌し、物質的な充足を求めて人びとは前向きに働いた。それと表裏をなすように、ともすると置き去りにされかねない個々に異なる内面的な豊かさの所在に気づきはじめたのである。
1950年代、60年代におこった、こうした近世墨跡の再評価の流れに裏付けを与えたのは鈴木大拙や西田幾多郎、久松真一といった哲学者たちだった。世界的な広がりを見せた禅文化の理論的支柱となった彼らもまた実践的な一面を持ち、その書にも徒ならぬ風格が備わっている。
なかでもこの動きにもっとも敏感に反応したのは一部の書家たちであろう。森田子龍は墨美社を通して書を中心とする禅の美術の積極的な評価を試みた。出版による啓蒙的な役割と同時に、紙に漆と顔料を用いた「観」のような、書の世界にそれまでなかった表現を模索している。子龍の書は抽象表現主義とも言われるが、出版活動と対をなす内面世界を重視した制作活動だった。
子龍が参加した墨人会が産声を上げたのは竜安寺の石庭である。井上有一もそこに集まった5人のうちの一人だった。「南無地獄極楽大菩薩」は白隠のそれを下敷きにして書かれたものだろうが、東京大空襲を体験した井上の地獄は白隠の地獄とは異なる地平にあるものなのだろう。この二点が同時に並ぶ機会はそうそうないのではないだろうか。
武士桑風は子龍と同世代で、大澤雅休・竹胎兄弟と行動をともにした。比田井南谷と並んで非文字の書作品を多く発表したことで知られている。桑風が、文字以前の人の感情をどうにか形にしようともがいたのも、この墨跡の時代のことだった。民藝運動にも近い大衆的なヒューマニズムを尊重した雅休の傍らで、ことばにならない感情を書として表現しようと葛藤し続けたのである。その後も旺盛な制作意欲は衰えず、2008年に歿するまで非文字を中心とする作品の傾向を枉げることはなかった。
白隠も慈雲も良寛も歴史上の突出した存在であり、彼らの書に他者では踏み込めないその人それぞれの厳然たる領域があることもわかる。しかし、これらを目の前にすると、理屈抜きの安心があるようにも思うのである。子龍は『禅と美術』という書籍が、「単に美術、芸術だけに止まらず人間生活のすべてにおける真実の在り方の発見と実践」のために役立つのではないか、と締めくくっている。その安心感は、虚飾を剥いだ人の真の姿が筆画に投影されていることに由来しているのかもしれない。
(大東文化大学 高橋利郎)
会場
松本松栄堂 東京店
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